スマホ依存

こんにちは、F欄太郎です。

 

昨日掃除中にスマホの充電ケーブルに足を引っかけて、スマホの充電端子が壊れました。

 

激萎えマン…

 

3か月前にも充電端子の接続不良でスマホを替えたばかりなのに。

 

スマホと女の子は大切に扱え、って近所のおじさんが言ってたのを思い出しました(虚言)

 

幸い私はドコモのケータイ補償お届けサービスに加入しているので、数千円を支払えば同等の機種と交換してもらうことができます。

 

保険っていうものは困ったときに初めてその恩恵を受けるものですが、私は常日頃からこのドコモのサービスのありがたみを感じています。

 

 

 

ところで、スマホの充電が切れたときとか壊れたときとかって、如何に自身がスマホに依存しているかを痛感させられますよね。

 

特に、SNSが使えない状況になると考えたら。

 

最近ではパソコンでもSNSが使えたりしますが、やはり使い勝手が違いますし。

 

でも、日常生活で四六時中SNSを使っているわけではないので、いつでもSNSで連絡を取ったり発信できたりする環境をスマホが作り上げているということが重要だと思います。

 

つまり、実際にSNSに依存しているわけではなくて、SNSを使える環境に依存しているだけではないだろうか(適当)

 

 

 

SNSを使える環境では、当たり前ですがもちろん多くの人と連絡を取ることが可能です。

 

ただ、最近ふと思うのが、もしSNSが使えなくなった時に連絡を取ることができる人って何人いるんだろうってこと。

 

中学時代はガラケーを使っていたので、その頃の友達とは電話帳から電話番号もしくはメールアドレスを調べれば、SNSを使わずとも連絡を取ることができます。

 

しかし、高校時代以降は電話帳の登録なんかしないし、何なら結構仲の良い友達でもLINEしか知らないなんてこともあります。

 

じゃあ、もし何かあってLINEのアカウントがなくなれば、その人とは連絡が取れないってことになりかねません。

 

まあ、Twitterとかインスタとかで繋がっていれば大丈夫ですけどね。

 

インスタグラマー「#みんなとつながりたい」

 

それくらい、今の時代の連絡手段って手軽であり、かつ希薄だと思います。

 

そう考えると、一般的にも手軽であることと希薄であることって、相関的かもしれないですね。

 

例えば、電子媒体を用いた授業って、教員からしても生徒からしても手軽ですが、その分実際に手を動かす機会が減るので、教育的効果は低そうですよね。

 

あくまで個人の考えなので、教育評論家が首を突っ込むのはNG

 

ってことをふと考えていただけなので、一般化したからと言って、特に何かオチがあるわけではないです。

 

 

 

今夜にも交換機種のスマホが家に届くので、そろそろ研究室を去ります。

 

では。